さて前回、過去の失敗を思い出してしまう理由は、心の底に「死の恐怖」があるからだと書きました。
なぜそうなっているのでしょう?
それは、「失敗をすると殺される」と思う思考経路が出来上がってしまっているからです。
どうして、そんな考え方をするのでしょうか?
一つの例をあげて説明しましょう。
埼玉県に住む両親と子供がいたとします。
両親は二人とも仕事をしています。
子供は幼稚園に通っています。
今日は3人で東京ディズニーランドに行く予定です。
子供は今日が初めてのディズニーランドです。
予定通り車で家を出て一時間ほど走り、途中にあったマクドナルドに寄りました。
そのマクドナルドには、プレイゾーンというトランポリンや大きな滑り台などがある遊び場がありました。
子供が遊んでいると両親は、
「もうそんな所で遊ぶのはやめてディズニーランドに行こう。」
と言います。
ところが、子供はディズニーランドに行ったことがないので、
「いやだ!今日はここで一日中遊ぶ!」
と言います。
子供はそのプレイゾーンが気に入って、全然言うことを聞きません。
両親がどんなにディズニーランドが素晴らしい所であるか、
こんな所で遊んでいるのは、いかに時間がもったいないかと説明しても、その子供は理解力がないので
「ここで遊ぶんだ!」
と言いはります。
両親も子供の言う通りにしたいのですが、
3人のスケジュールがなかなか合わないので、今日ディズニーランドに行かなかったら今度いつ行けるか分かりません。
そんな時には普通の親だったら、必ずこう言うでしょう。
「そんなに言うことを聞かないんだったら、ここに置いて行くよ。」
と
子供は一人で置いて行かれたら迷子になってしまうと思います。
こんなに遠くで迷子になったら死んでしまうと思います。
そうして、結局3人でディズニーランドに行き、
子供はマクドナルドのプレイゾーンよりも、ディズニーランドの方がずっと楽しいという事を学習します。
これは恐怖感を与えて教育する方法です。
普通の親ならば、みんなこの方法を使います。
これは親も子供の時にはそうされた、非常に効果の高い教育方法なのです。
「言うことを聞かないのなら置いていく、家に入れないでご飯も食べさせない、部屋に閉じ込める」などと言って子供を脅(おど)すのです。
また、子供が以前に教えたことを忘れて、同じ失敗をくりかえした時も脅したり、怒って恐怖感を与えます。
普通の子供だったら、親が本当に置いていく、
つまり親に本当に殺されるとは思わないでしょう。
でも、次のような特長を持った子供だったらどうでしょうか?
(1)きめ細かい繊細(せんさい)で鋭敏な感覚を持っている。
(2)人が見過ごすようなことにも感動を見つけられ、感受性が豊かである。
(3)想像力が豊かで、人が見過ごすようなことにも恐怖を感じることができ、危機管理 能力が高い。
(4)他人の表情や声色(こわいろ)から本当は何を考えているかを見抜くことができる。
(5)自分や自分たちの欠点を真摯(しんし)に受け止め、危機感を持って改善しようとす る。
たとえそれが相手のヒステリーだろうが、八当たりだろうが、ストレス発散であろうが、
相手が自分のためを思って言ってくれている所があれば、何とか改善しようとする。
(6)純粋で素直で優しくて、まず人の言うことを信じているようにふるまってあげようとす る。
(本当には信じていなくても、信じているようにふるまってあげようとする)
さて、このような子供は大変すばらしい子供なのですが、
この特長を別の角度から見てみましょう。
まず、きめ細かい繊細で鋭敏な感覚を持っているというのは、別の言葉で言えば「神経質」と言えるでしょう。
人が見過ごすようなことにも感動を見つけられ、感受性が豊かであるというのは、「過敏である」とも言えるでしょう。
想像力が豊かで、人が見過ごすようなことにも恐怖を感じることができ、危機管理能力が高いというのは、
少し言葉の意味が違うかも知れませんが、「臆病(おくびょう)」と言えないこともないでしょう。
ただ、臆病というのは決して恥ずかしい性格ではありません。
歴史上の名将(すぐれた武将、司令官など)やすぐれた作戦家の多くは、この性格を持っています。
このような人たちは自分たちの抱えている危機を、臆病な性格によって知ることができ、
それによって味方の守りを完璧(かんぺき)にするから常に負けることがないのです。
次に、他人の表情や声色(こわいろ)から本当は何を考えているかを見抜くことができるというのは、
「過剰な反応をする」、「羸弱(るいじゃく)」とも言えるでしょう。
悪く言えば、常に他人の顔色を気にして行動するということになるでしょう。
その次に、自分や自分たちの欠点を真摯(しんし)に受け止め、危機感を持って改善しようとする。
たとえそれがその欠点を指摘した相手のヒステリーだろうが、八当たりだろうが、ストレス発散であろうが、
相手が自分のためを思って言ってくれている所があれば、何とか改善しようとするというのは、何でも「真(ま)に受ける」と言うことでしょう。
相手が「これくらい大げさに言っておけば、ちょっとは改善してくれるだろう」と思って言ったことも、全部改善してしまう。
「こんなことを言われるということは、あそこも改善したほうがいいのではないか?ここも改善したほうがいいのではないか?」
と考えて言われていないことまで改善してしまう。
こういう事は、やはり「真に受ける」と言うことだと思います。
純粋で素直で優しくて、まず人の言うことを信じているようにふるまってあげようとする
(本当には信じていなくても、信じているようにふるまってあげようとする)というのは、
「軽信」(軽々しく人の言うことを信じること)にとてもよく似ていると思います。
明治維新を起こした有名な革命家に、吉田松陰(しょういん)という人がいます。
彼は日記に
「余(よ)は人を信ずるに失(しっ)するとも、誓(ちか)って人を疑うに失することのなからんことを欲(ほっ)す」
と書いています。
人を信じて失敗するのは良いけれども、人を疑って失敗したくはない、と言うのです。
僕はこのような考えにとても共感します。
さて、上に書いた六つの性格を全て持っている子供を、普通に育てたらどうなるでしょう?
全く知らないところに置いて行くと言われたり、
ごはんを食べさせないと言われたら、殺されると思うでしょう。
両親というのは、子供が一番初めにいっしょに生活する人間です。
ですから、「親の言うことを聞かないと殺される」と思いこめば、
「人の言うことを聞かないと殺される」と思いこむようになります。
以前教えたことを教えた通りにやらないで、失敗すると親は怒ります。
その怒り方が激しかったり、脅(おど)し方が激しかったら、
上記のような子供は殺されると思うでしょう。
そうすると、「失敗すると殺される」と思い込むことになります。
失敗しないためにはどうすればいいでしょう?
それには、過去の失敗を何度も何度も思い出して、
失敗しないように常に神経を張りつめているしかないのです。
そうしないと殺されるのですから、命がけで全身全霊をこめて、そうするしかなくなるのです。
僕も神経質で、羸弱で、過敏で、他人に過剰な反応をして、臆病で、何でも真に受けて、軽信しやすい子供でした。
僕は小学生の時から「勉強しないのなら出て行け」と言われました。
怒られる時は必ず「出て行け」と言われました。
一時は父親がお酒を飲んで、“病的酩酊(めいてい)”状態になりやすかったこともありました。
病的酩酊状態とは、1分前の記憶がなくなり、翌日には昨夜お酒を飲んで何を言ったか分からなくなる状態です。
理性的な判断力がなくなって、刑事的責任能力がなくなる状態です。
母親は強度のヒステリーだったことがあります。
毎日父親がお酒を飲んで会社のお得意先の人といっしょに帰宅し、明け方まで家でお酒を飲むので、
極度の睡眠不足になってしまったのが原因です。
「出て行け」と物心がつくころから言われました。
そんなに幼いころに家から追い出されたら死んでしまいます。
普通の子供ならば無視するでしょうが、僕は聞き流すことができませんでした。
「本当に出て行ったら困るくせに」という考え方ができませんでした。
人は自分よりも体が2倍も大きい人間から大声で怒鳴られるだけで生命の危機を感じものでしょう。
僕はそのような危機感を、人の何倍も感じやすい子供でした。
人間というものは、自分が死んで愛する人々が助かればそれでよいと思うものでしょう。
僕は妻のためならば死ねます。
妻と僕のどちらかが死ねばどちらかが助かるというのならば、自分が死にます。
それは当たり前です。
まさか俺は生きたいからお前が死んでくれなんて、言う夫はいないでしょう。
子供のために自分が死ぬというのも当然です。
それが親子愛だと言ってもいいでしょう。
そんなことは動物だってします。
それが生物の本能であり、人間の魂に響く考え方です。(詳しくは07年03月15日の「社会生物学」を参照してください)
ただ早々と死を選ぶのは、愚かな人か心を病んでいる人のやることです。
子供に親がいないのといるのでは、いたほうがいいに決まっているからです。
子供も助かり自分も助かる方法を考えるのが普通の人です。
親が
「お前なんか出て行け、出て行って野垂れ死に(のたれじに)して死んじまえ!」
と言ったって本気ではありません。
恐怖感を与えて、言うことを聞かせて幸せにしてあげようと思っているのです。
あるいは子供の将来の幸せを考えて「こうしなさい」、「ああしなさい」と言っているのに、
子供が怠惰(たいだ)でその場の快感だけを追求して全然言うことを聞かないから、
カッとなってつい言ってしまうだけです。
本気で死ねばいいと思っているわけではありません。
親は自分が死んでも子供を生かしたいと思っているのです。
僕もこのことには、前妻との間に子供ができて初めて気付きました。
だから、親の言うことを真に受けて、親は自分に死んで欲しいんだと思いこむのは間違いです。
親というのは、人が人間関係を作る一番初めの人間です。
その一番初めの人間が「自分を殺したいのだ」という間違った思い込みをしてしまうと、
その後の人間関係に大きな障害が出てしまいます。
これが僕の場合の人間関係のつまずきの始まりだったのです。
もちろん、普通の子供は多少強く怒られてもそんな思い込みはしません。
でも、中には特殊な性格を持った子供もいるのです。
「いい子にしていないと殺される」
「いい子にしていないと愛されない」
「自分には条件付きの愛情しか与えられない」
「自分が無条件の愛情を受けることはない」
「相手に全く迷惑をかけないようにしていないと愛されない」
「相手に少しでも不快感や不利益を与えると愛されない」
「相手に大きな利益を与え続けないと愛されない」
と心の底で考えるようになるのです。
全く不快感や不利益を与えないで、大きな利益を与え続けられる相手なんていません。
その理由は自分が人間だからです。
自分は神や仏ではないからです。
そういう思い込みをしていると、友人から利益をすぐくれる、いいやつだと思われるようになります。
お人よしだと思われて、利用されます。
僕は物やお金はあげませんでした。
そこまでお人よしではありませんでした。
けれども、友人にテストに出る問題の解き方を教えてあげていました。
自分がまだテスト範囲の勉強が全部は終わっていないのに、
終わったところまでは教えてあげていました。
どんな人といる時も常に緊張をしていました。
自分にはどこにも居場所がないと思っていました。
焼けつくように孤独でした。
遠慮なく何でも話せる人なんていませんでした。
でも、初めての子供が10歳とか12歳になるまでは、
親だって「自分の子供は特殊だ」なんて分かりませんし、
親だって未熟ですし、自分より年下のやつに謝(あやま)るなんて「大人」で「偉大」な親は普通いません。
ついかっとなって怒ってしまったからといって、謝(あやま)る親なんていません。
子供を怒って「ああ言いすぎたなぁ」と思っても普通の親は謝りません。
生徒に謝る教師がいると、
僕の母は
「あの先生は独身だから、ウブだなぁ、純真だなぁ、子供になれていないなぁ、あんな先生が担任でだいじょうぶかなぁ」
と言っていました。
こういうおおらかな親に傷ついてしまう子供もいるでしょう。
子供なんて言っても聞かないし、叩いたり、ちょっと外に閉めだしたり、部屋に閉じ込めないと反省なんてしないと思う親は多いでしょう。
そう思うほうが普通で、ほんの少し怒られただけで何時間も反省して、
言われていないことまで紙に書いて反省して、
死にたくなる僕のような子供の方が特殊なのです。
つまり、僕は愛されていなかったわけではないのです。
普通に愛されていたのです。
「人間というのは、自分のような人間がうとましくて、こんな人間を見るといじめ殺したくなる」
と思っていたのは、誤解だったのです。
「自分のような人間は存在自体が不愉快で、存在するだけで不利益を与えていて、
よほど迷惑をかけないように緊張していないと嫌われて生きていけないのだ」
という考えは間違いだったのです。
大きな誤解だったのです。
全ての問題はそこにあったのです。
それが大きなストレスになっていたのです。
生きていること自体が巨大なストレスになっていて、プレッシャーになっていたのです。
そこから過剰な反省が生まれてきていました。
他人の失敗まで自分のことのように後悔して心を痛めてしまっていました。
失敗をして反省をすることはいいことです。
失敗をしても反省をしない人がいます。
何でも他人のせいにして、自分で努力をしようとしない
そういう人は、他人にものすごく迷惑をかけてしまう人です
そういう人に比べて反省をする人は、自分をより魅力的に変えていく能力がある人です。
失敗したら反省をして、そこから教訓を引き出せばいい。
失敗を思い出したら、その教訓を思い出せばいい。
教訓が十分記憶できたら、もう失敗の方は思い出さなくていい。
たとえ同じ人に対して同じ失敗をしてしまっても、
それが正当な殺人理由になるわけではないのですから。
「自分は過去にこんな失敗をした人間だから、将来的にこんな失敗をするに違いない」という予測は当たるでしょうか?
僕の場合は、じっくり自分の人生を振り返ってみた結果、まるで当たっていなかったことに気がつきました
自分はこんな失敗をしたことがあるから、だから、それが原因となって、将来必ず絶対こんな失敗をするであろう、
こんな悪い結果がおこるだろうと、考えることがあります。
しかし、そのようなタイプの「過去から類推(るいすい)して立てた未来の予測」というのはまるで当たらないものです。
他人がそのような失敗をしているのはよく見ます。
「あの人は以前あんな失敗をしていたなぁ。だから今回も失敗するんじゃないかなぁ」と思っていたら、案の定(じょう)失敗することはあります。
でも、うつ病になるような人は、自分の都合の悪いことはみんな忘れてしまう「陽気な」人とは違うのです。
何度も失敗を思い出して、十分対策を立てて準備をしているから失敗しないのです。
「自分はこんな失敗をしたことがある。こんな失敗をするようなことでは将来的に見込みがない。
だから死んだ方がいいんだ」と考える必要はないのです。
過去を思い出して悲しみで心を痛める必要はないのです。
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